展示の主旨 | |
遺跡速報展は、当センターが実施した発掘調査成果を遺構写真や遺物の展示を通して速やかに紹介し、県民が埋蔵文化財を通して歴史文化への理解を深める機会を提供することを目的としています。 「いにしえのえひめ'11」では、報告書編と発掘調査編にテーマを分け、平成22年度に県内の発掘調査および報告書作成の作業を行った遺跡の遺構写真や出土遺物を展示しました。 |
- 前期展(報告書編) - | |||
前期展(報告書編)では、平成22年度に報告書を刊行した以下の5遺跡の写真や遺物を展示しました。 また、関連する南予の山城について紹介しました。 一条氏と長宗我部氏のせめぎあい、中世えひめの動乱に思いを馳せていただけたことと思います。 |
|||
|
道後今市遺跡は、道後平野北部に広がる石手川扇状地の扇端付近に位置しています。道後今市遺跡では、最初の発掘調査が実施された昭和56年以降、これまでに14回の調査が行われており、今回の調査は15回目となります。遺跡西側には弥生時代の大集落が確認された文京遺跡があり、本遺跡が立地する道後城北地区は道後平野のなかでも屈指の遺跡群として知られています。 調査では、縄文時代の自然流路や古墳時代・中世の集落跡を発見しました。縄文時代の旧河川からは、周囲から流れ込んだとみられる縄文時代後期・晩期(約4000〜2500年前)の土器群が出土しました。集落は見つかっていませんが、旧河川の流下方向や土器の出土状況から、上流域にこの時期の集落が存在したものと考えられます。 古墳時代では、前期末頃の集落の一部や自然流路を確認しました。周辺では古墳時代前期の竪穴住居の検出例は比較的少なく、発掘された資料は道後城北地区の古墳時代集落の変遷を考えるうえで良好な資料といえます。 中世では13〜15世紀頃の集落を確認しました。周辺でのこれまでの発掘調査から、湯築城の外掘が掘削され、町場の再編成が行われたとされる16世紀頃に集落の廃絶が進行する傾向が明らかにされていましたが、今回の調査でもその事実を追証する成果が得られました。 |
||
|
池田遺跡は、伊予市の背後に連なる400m級の山塊から派生する古期複合扇状地扇端部の比較的安定した標高2.5mの微高地上に立地し、弥生時代以降の浜堤と推定されるラインから約200m程度内陸に位置します。 調査区からは古墳時代の竪穴住居が18棟、溝が4条のほか土坑やピットが検出されました。竪穴住居で最も古いものは6世紀初頭で、逆に最も新しいものは6世紀後半にあたり、約70年〜80年程度続いた集落であることが分かりました。また、建物が建てられていた範囲がこの周辺でも高い位置にあることが分かりました。 遺物は各住居から日常的に使用される須恵器の杯蓋や杯身、甕などを出土していますが、SI-9とSI-11からは6世紀のものとしては極めて珍しい黒色土器の杯が出土しています。この土器は内外面とも炭素を吸着させ黒く燻したもので、外面はヘラケズリとヘラミガキ、内面にはヘラミガキによる放射状の暗文が施されています。類例を調査した結果、山口県の遺跡によく似ているものが出土していることが分かりました。しかし、そこでも個体の数は少なく、この土器が日常生活で一般的に使われる土器ではなく、何か特別な用途をもっていたものと考えることができます。その他、古墳の副葬品として知られている子持壺などの出土も珍しいといえるでしょう。 伊予市では多くの古墳の存在が知られていますが、古墳を築造した人々の生活していた集落についてはほとんど情報がありませんでした。今回の調査で集落の一端を垣間見ることができたといえるでしょう。 |
||
|
岩倉城跡は三間町西部に位置しています。標高220mの山頂に主郭があり北西・北東・南東方向に延びる丘陵裾に向かって曲輪が連なる構造です。 調査は南東裾に延びる丘陵上で行われ、大小10箇所の曲輪や切岸などの城郭遺構が確認されました。特に丘陵中心部ラインに階段状に削り出された広い曲輪を中心に約1000本の柱穴が検出され、掘立柱建物や柵列が復元されています。 出土遺物は土師器杯・皿、備前焼甕・擂鉢、青磁・青花・砥石・銅銭などで、備前焼は主に15世紀後半代、青磁は14世紀後半から15世紀前半代のものが多く、青花は16世紀後半のものがみられます。また、18世紀〜19世紀にかけての陶磁器類も出土しており、中には柱穴から出土するものもあり、中世山城としての機能を終えた後の江戸時代でも、曲輪が何らかの目的で再利用されていたことが分かります。 山のふもとまで含めた一山全体を城域とした岩倉城の中で、南部の一部について調査したにすぎないが、築城の初めは14世紀後半に遡ると考えられ、15世紀にかけて多くの曲輪が造り出されていったと考えることができます。 |
||
|
中津倉城跡は旧宇和島市の北東部に位置し、高串川と光満川に挟まれ南に延びる丘陵頂部(標高88m)の先端に立地しています。 構造は曲輪の後方に土塁が築かれ、その背後は尾根筋を分断するように堀切がいれられる単郭構造です。曲輪は長軸40m、短軸10〜20mの楕円形に近い形状で、西斜面には犬走り状の平坦部がみられます。土塁は長さ28m、基底幅10m、高さ約1.7mで、背後の堀切を掘削した時に出た土を掻きあげて造られています。曲輪からは約100本のピットが検出されています。柵列の一部は復元できましたが、建物として復元できる組み合わせは見いだせませんでした。堀切は長さ25m、幅6m、深さ2mの規模で、断面形は箱形を呈します。土塁頂部までの比高は約4mになります。 出土遺物は土師器皿・杯や青磁碗、備前焼擂鉢などがあり、いずれも15世紀前半頃の年代観です。 城からの眺望は重要で、西下には吉田から法華津方面、東下には三間方面からの街道があることから、これら主要幹線経路を見張るには絶好の場所であるといえ、城の主要目的の一つとして考えられるでしょう。 |
||
|
板島城跡は旧宇和島市北部、高串川と須賀川の合流地点西側の丘陵頂部(標高65m)に位置しています。城の構造は頂部の曲輪を中心に斜面部に複数の曲輪を造り出し、背後の山塊に続く尾根筋に堀切を設けて城域を確定しています。 調査区は頂部より下位の曲輪の一部と斜面部で、曲輪からは柱跡が検出されましたが、建物や柵列の復元にはいたりませんでした。斜面部からは地山を掘り込んだ竪堀ではないかとみられる溝状遺構や、登城の通路として造られたと考えられる平坦部が検出されました。国道に面した斜面部は過去に数回の土砂崩落を起こし、斜面にはその時の「U」字型の流出跡が確認できますが、その内の一本は調査で検出した竪堀と考えられる溝状遺構とラインがほぼ整合します。また、崩落箇所はほぼ20mの間隔でみられることから、築城段階で斜面には数本の竪堀が造られていたのではないかと考えました。 この城は宇和島城を築いた藤堂高虎が一時的に使用していた可能性が伝承されていますが、出土遺物の大半は14世紀後半から15世紀代に限られ、16世紀終末のものはほとんど出土していません。このことから遺物により藤堂の居住を証明することは難しいといえます。むしろ15世紀に竪堀をもつ城であったとすれば、城の縄張り構造からみて隣国の一条氏との関係を考慮する必要が生まれるといえるでしょう。 |
||
岩倉城跡 全景 |
報告書編:展示室内の様子 |
- 後期展(発掘調査編) - | ||||
後期展(発掘調査編)では、平成22年度に発掘調査を実施した以下の6遺跡の写真や遺物を展示しました。 併せて、近年、国指定された古墳を中心に県内の指定史跡(古墳)を紹介しました。 |
||||
|
鳥越1号墳は頓田川支流の黒岩川上流域にあたる、野々瀬地区前面の丘陵先端部(標高76.9m)に造られています。各地に現存する古墳の多くは墳丘を流失し、石室の一部が崩壊していますが、当古墳は一部に盗掘の跡はみられるものの、墳丘の遺存は極めて良好で石室の露出なども認められませんでした。 墳丘規模は直径12m程度で、形態は円墳です。墳頂部から1.2m下に石室の天井石が確認できました。検出された石室は横穴式石室で、規模は奥行き約3.2m、奥壁幅1.7m、奥壁の高さ約1.7m、玄門部の高さ約1.5m、玄門幅約1.3mです。石室の天井は大小6枚の石で覆われていました。石室側壁の造り方は基本的に腰石の上に割り石を積み上げていきますが、上に行くほど内側にせり出すような造り(持ち送り)になっています。 床面からは埋葬された人(被葬者)に供えられたもの(副葬品)が出土しました。それは須恵器の杯身(7個体)、杯蓋(3個体)、短頸壺(8個体)、壺蓋(1個体)、広口壺(1個体)、提瓶(1個体)などと、鉄製品の鎌(2本)、刀子(2本)、鋤先(1本)、鉄鏃(14本以上)です。 また、被葬者が身に着けていた可能性のある装飾品として、碧玉製管玉(4個)、緑色凝灰岩製管玉(2個)、水晶製切子玉(1個)、ガラス製丸玉(4個)、ガラス製小玉(20個)、土玉(1個)、耳環(7破片)などがあります。 出土した須恵器には6世紀中頃のものと7世紀初頭のものがあることから、古墳が築造されたのは6世紀中頃で最初の埋葬が行われ、7世紀初頭にも再び埋葬(追葬)が行われたと考えられます。 石室から検出された人骨は残りが悪く歯と肋骨だけでしたが、分析の結果二体分あることが判明し、歯は幼児で、肋骨は成人であると判断されました。ともに性別は不明です。 鳥越1号墳がほぼ完全に残っていたことにより、横穴式石室導入期(6世紀中頃)の様相を把握するための好材料を得ることができましたが、今後、周辺の集落遺跡や近隣に所在する野々瀬古墳群との関連など検討すべき課題は多いといえます。 →平成22(2010)年11月6日(土)に行った現地説明会のようす |
|||
|
朝倉南今若遺跡は、頓田川支流の黒岩川右岸に展開する遺跡です。平成21年度の調査では、弥生時代中期末〜後期と古墳時代後期〜終末期の集落跡を検出しました。平成22年度の調査でもほぼ同時代の遺構を検出し、集落が引き続き広がっていることを把握しました。なかでも6区で検出された弥生時代の竪穴建物(SI02・07)では、周壁溝の一部が切れており、住居への出入口ではないかと考えられるなど、建物構造の解明のために良好な資料を得ることができました。 黒岩川のさらに上流域にあたる調査区(5区・8区・9区)では、弥生時代中期と古墳時代後期および古代の遺構を検出しました。鳥越1号墳のやや下位の丘陵斜面部では、弥生時代中期後半から後期初頭特有の丘陵性集落の竪穴建物が検出されました。また黒岩川の右岸では、旧河道の岸に土器溜まりなどを検出しましたが、遺構はほとんどありませんでした。 8・9区の丘陵裾から黒岩川までの間のゆるやかな地形の箇所では、古代の掘立柱建物が検出されました。建物の密集度は低く疎らな状態ですが、官的性格の遺跡や寺院などから出土する傾向が強いといわれる、緑釉陶器や円面硯・赤色塗彩土器などもわずかですがみられることから、この集落の性格がどのようなものであったかを究明することが課題となります。 |
|||
|
北井門遺跡は、松山平野南部の重信川と内川の合流点付近に形成された低位段丘面の微高地上に展開しています。ここでの調査は平成20年度から実施されており、縄文時代後・晩期、弥生時代後期、中・近世の各遺構・遺物が検出されています。 2次調査区では、洪水による堆積層から縄文時代後期の土器や石器が出土しました。また、昨年度に続いて晩期の土器棺墓も検出され、墓域として利用されていた区域がさらに広がる状況がうかがえます。 3次調査区では、竪穴建物3棟(縄文時代晩期1棟・弥生時代後期2棟)、土坑6基、溝5条、埋没谷2、柱穴128本を検出しました。特に縄文時代晩期の竪穴建物の検出は県内において極めて稀な例であり、墓域と居住域の在り方などを解明するうえでも貴重な成果であるといえるでしょう。一方、弥生時代後期の溝からは大量の土器が出土しています。これらは単に廃棄されたものであるのか、または、祭祀的行為として意義づけができるものなのか、周辺の事例も含めた検討課題のひとつです。 4次調査区では、近世の柱穴が検出されました。調査区北側において過年度に検出された近世建物群との関連がうかがえます。近世以前では特に遺構は検出されませんでしたが、この区域が縄文時代後期以前は河川などの流水作用によって不安定な状況にあったことや、後期後半以後は比較的安定化し生活空間として機能していたことなどが、土層の堆積状況から明らかになりました。 |
|||
|
石手村前遺跡は石手川扇状地の扇頂部付近に位置しており、調査区は石手寺前道路に沿った南側にあたります。今回の調査でも前回調査と同じく古代から中世の遺構・遺物が検出されましたが、特に中世では13〜14世紀と16世紀頃の二時期の遺構面が存在していました。 検出された遺構は二時期ともほぼ同様で、竪穴状遺構、土坑、柱穴、溝などです。調査区が狭いので柱穴から建物の配置や規模などを推定することは難しいのですが、遺構の形成時期が16世紀のある段階までで、以後は耕作地として利用されていたことが判明しました。 出土遺物は中世遺跡では一般的な土師器の杯・皿などのほか、出土事例の少ない内底部に双魚文をもつ龍泉窯系青磁皿などもあります。 今回の調査区から検出された中世遺構は、当時の石手寺と関連があるのではないかと考えるのが自然です。現在石手寺に所蔵されている「石手寺往古図」(16世紀頃の石手寺とその周辺を表している可能性あり)を見る限り、調査区は石手寺の坊院の中にあるとみられます。具体的な対比は難しいと思われますが、絵図から得られる情報は遺構を解釈するうえでも重要であるといえます。 |
|||
|
本郷遺跡は、新居浜平野西部を北流する東川の右岸に位置しています。当遺跡では平成21・22年度に2度の調査が行われており、今回の調査は3回目の調査になります。これまでの調査において、平安時代の掘立柱建物が6棟確認されており、1次調査で確認された火葬墓や緑釉・灰釉陶器などの高級品の出土、本郷という字名などから、当時の官的施設であった可能性が想定されています。 今回の調査では、1次調査区と2次調査区の中間地点から掘立柱建物1棟・土坑5基を確認しています。確認した掘立柱建物の主軸方向はN-12°-Wで、これまでの調査で確認された掘立柱建物とほぼ同様の主軸方向をもっていることが明らかとなりました。 また、これまでに確認された7棟の掘立柱建物は相互に時期差をもっていることが既に明らかとなっており、これらの建物が8〜10世紀前半頃にかけて2〜3回の建て替えを行いつつ存続したものと考えられます。なお、1次調査区の北側には遺構の広がりは確認できておらず、建物の配置から遺跡はさらに調査区の東側に広がっているものと考えられます。 |
|||
|
滝の宮遺跡は新居浜平野西部に広がる金子山山地の東麓に位置しています。調査は県道新居浜港線の拡幅工事に伴うもので、約240mにわたって現道の西側に帯状の調査区を設定して調査を実施しました。 調査の結果、平安時代・室町時代の集落が確認され、ほかにも縄文時代後期・晩期の土器、弥生時代前期の土器等が出土しています。 中世では、慈眼寺の東側に位置する調査区で、14〜15世紀頃の集落跡を確認しています。集落は掘立柱建物とみられる柱穴・溝・土坑等で構成されており、今回の調査によってその一部を検出することができました。調査区が狭かったため、集落の全体像は判然としませんが、遺構の広がりがその南北へは拡大しないことから、慈眼寺の前面に集落が存在し、本遺跡はその集落の東縁部にあたることが予想されます。 現在の慈眼寺敷地内には、当地域の有力な国人領主である金子氏の居館跡があったとされています。また、時期的にも、本遺跡の形成は、金子氏が新居郡の地頭として活躍した期間に進んだもので、両者には密接な関連性があったものと予想されます。 |
発掘調査編:展示室内の様子 |