第23・24郭近景 | |
平成17年(2005年)10月22日(土)、宇和島市三間町において、四国横断自動車道建設に伴う発掘調査を行った岩倉城跡の現地説明会が開催しました。 この度の調査は平成17年の4月から約7ヶ月間かけて6,800平方メートルの調査が行われたもので、岩倉城の本郭から南東部に延びる標高約160〜185mの範囲に郭(くるわ)が広がっていることがわかりました。 岩倉城は1600年代に記された『吉田古記』や近世初頭の筆とされる『清良記』によれば、中世の宇和郡を支配した西園寺氏の配下(有馬殿)によって築かれた城郭とされています。この城は三間盆地の西部を見渡す丘陵地帯にあり、当時の歯長峠付近や吉田方面の防衛に備えたものであることが想起されます。 今回の調査では、事前の縄張り調査で確認されていた2つの郭以外にも、5つの郭が確認されており、新たに発見された最も低い位置にある郭は、東に流れる三間川に接するように延びていました。つまり、予想外に岩倉城が拡大されていたことがわかったのです。 さらにこれらの郭からは、建物跡13棟、柱穴列(柵列?)11条、柱穴900基などが確認されており、土師器(はじき)、備前焼(びぜんやき)、青磁(せいじ)、青花(せいか)などの出土遺物が発見されています。そしてこれら遺物の年代から、16世紀第3四半期(1570年代)まで利用されていたことがわかりました。 こうした建造物などの存在は、この城が戦いに備えた詰城としてだけではなく、居城として機能していたことも考えられるのではないでしょうか? さらに調査によって明らかとなった郭の在り方と年代観は、16世紀末の欠落を示すものです。この結果は岩倉城の落城あるいは廃城時期の検証に対し、複雑な問題を投げかけることになるでしょう。 なお、発掘調査が行われたのは岩倉城全体の約1割程度で、本郭を中心としたその周囲の郭は高速道路のトンネル工事によって破壊を免れることになりました。今後も岩倉城はその姿を三間盆地に留め、さらなる調査研究に期待が寄せられることでしょう。 時折小雨の降る曇り空のなかでの説明会でしたが、三間町の内外から85名の見学者(参加者)があり、皆さんは熱心に城跡を歩き回り、遺構や遺物を見学されていました。調査にあたっては、宇和島市三間支所をはじめとした地元の方々に大変お世話になりました。改めて感謝申し上げます。 |
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現地説明会資料[PDF] (2.9MB) |
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