[ 堀之内町割り復元図 ] |
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[ 県民館跡地調査区全景 ] |
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所在地 松山市堀之内 所属時期 近世(江戸時代) ○○遺跡の様な形をとらず、漢字ばかりで難しそうですが、これは国指定の史跡(遺跡)の中にあるためにこのような遺跡の名前になっています。 松山市のシンボルでもある「松山城」は、城山(標高132.1m)の頂上にあるお城の建物をはじめ、NHK松山放送局や県立美術館、松山市民会館がある堀之内公園も含まれ、上の図のように堀之内部分を亀の頭・東雲神社辺りをシッポに見立て、別名「金亀城」・「亀郭城」とも呼ばれています。 本遺跡は、この亀の頭の部分堀之内公園内・現在の県立美術館の位置にあたります。 堀之内公園は、江戸時代も同じく「堀之内」と呼ばれており、主に松山藩の役職を持った上〜中級武士の役宅が建ち並んでいたことが江戸時代に描かれた、いくつかの絵図によって知られています。 遺跡からは、絵図の通り都合4本分の幹線道路と11軒分の屋敷割りを見つけることができました。幹線道路は路面の両側に石組の側溝を持ち、側溝の外側には土塀の基礎の痕跡が認められ、東西方向に延びる道路は南北方向に延びる道路の幅より広くとられていることからもメインストリートと考えられます。道路幅7.2〜7.75m・側溝幅48〜52cm・側溝の深さ36cm・土塀基礎幅74cmを測り、南北方向に延びる道路は一回り規模が小さく、4.62〜5.24m・側溝幅52〜58cm・側溝の深さ36cm・土塀基礎幅44cmを測るものでした。 一つの屋敷の大きさは東西幅37.57m、南北幅は35.5mを測り約403坪の広さを持っており、現在の平均的な住宅敷地を70坪と考えるならば約6軒弱が建てられる広さです。 道路と屋敷割りについては、「堀之内」が造営された時期からほぼ変化がないことが明らかとなっていますが、各屋敷地内には建物もしくは建物に伴う施設(井戸・石組みの半地下式倉庫・ごみ穴)等が多数見つかっています。これらの多数の遺構は一時期に設けられたものではなく各遺構の検出層位や出土遺物によっておおまかに、I-17世紀代、II-18世紀代、III-18世紀末〜19世紀前半、IV-19世中頃〜明治10年(1977)までの4時期の画期にそれぞれが設けられたことが解っています。 また、屋敷は東西方向に延びる道路側を表として考えていた向きがあり、建物の柱等を据え付ける穴や、建物の基礎となる石が配されることが多く、屋敷の真ん中から裏側には井戸や石組みの半地下式倉庫・ごみ穴・築山や金魚を飼うような池なども見つかっています。 そのほか、各時期の遺構の特徴として、IIの18世紀代以前は、井戸や石組みの半地下式倉庫の様な建物に伴う施設が目立ち、いわゆるごみ穴は少なかったのですが、IIIの18世紀末〜19世紀前半以降は爆発的にごみ穴が増加する状況が得られました。 ごみ穴には生活雑廃物(茶碗・櫛・アクセサリー・玩具)をはじめ生ゴミ類も多く捨てられており、それらのゴミから当時の生活情景が浮き彫りとなりました。 官舎に相当する役宅には役職の就任期間中は家族で住んでいたことが考えられ、頻繁に宴席が設けられた可能性も窺える資料も見つかっています。 この遺跡は、江戸時代の松山藩の「堀之内」の在り方や、上級武士の生活やを知るうえではさまざまな情報を持った遺跡で一概には語り切れないので、今後徐々に情報を増やして行きたいと考えています。 |
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[ 調査区周辺屋敷割図 ] |
[ 南北道路全景 ] |
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[ 井戸の検出状況 ] |