所在地
松山市道後
所属時期
中世
湯築城跡は伊予国守護河野氏の居城で、築城は南北朝期といわれ、豊臣秀吉の四国攻めにより小早川隆景に開城するまで、約250年間伊予国の中枢として機能していました。比高約30mの丘陵部を中心に、内堀・内堀土塁、外堀・外堀土塁という二重の堀と土塁を巡らせた平山城で、城の規模は東西約300m、南北約350mです。
発掘調査は1988年に開始され、これまでに南部を中心に約2万平方メートルについて実施しました。当初は緊急発掘であったが、遺跡が保存されることになって以降1991年からは、学術調査が行われています。
南部の調査では、外堀と外堀土塁を築いた16世紀前半から廃城となる16世紀末頃までに4段階の遺構面が確認された。外堀土塁の内側を巡る道路や排水溝、西側には小区画内に礎石建物を配した家臣団居住区、中央に池を中心とした庭園区、東側に数棟の礎石建物で構成される上級武士居住区などの遺構が検出され、ほかにも公園西口では搦手門、丘陵部では鍛冶炉や掘り切りなどが発見されました。遺物は、土師質土器、備前焼、輸入陶磁器などを中心に約25万点出土しており、特に火災で焼失した16世紀中頃の遺構面から良好な資料が得られています。
平成14(2002)年9月20日、国の史跡に指定されました。発掘調査の成果をもとに、武家屋敷の復元や遺物の展示などの整備が行われ、春から一般公開されています。
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