所在地
今治市馬島
所属時期
弥生時代〜古墳時代
馬島亀ヶ浦遺跡は愛媛県今治市沖の来島海峡に浮かぶ馬島の西海岸に位置しています。来島海峡は燧灘と斎灘を隔てている芸予諸島の中にあって、最も四国北岸に近い海峡で、古来より東西を結ぶ主要な海上交通路として利用されてきました。現在でも国際航路として1日に千隻以上の船が往来し、また、地形や潮流が複雑で海難事故が多発する海の要衝として知られています。
発掘調査は、しまなみ海道来島海峡大橋の建設に先立って平成2年から3カ年にわたって行われました。発掘調査では縄文時代から古代にかけての海辺の暮らしを伝える貴重な資料が発見されていますが、中でも、縄文時代と弥生時代中期から古墳時代前期にかけては、亀ヶ浦遺跡が最もにぎわった時代です。縄文時代後期では、香川県坂出市の金山で産出し、瀬戸内海沿岸地域で最も多く用いられた石器の原材料であるサヌカイトの塊が、地面を掘りくぼめた穴に収められていました。このことは縄文時代の馬島の人々が、交易の担い手として船で瀬戸内海を股にかけて活躍していたことを示しています。
弥生時代の中期から古墳時代前期にかけての亀ヶ浦遺跡では、海岸砂丘の上に集落が営まれていました。遺跡からは多量の製塩土器が出土していることから、塩作りが盛んに行われていたと考えられます。馬島は周囲が約3.2Km程度の小島で、米作りや畑作などで生活できるほどの平地はありません。馬島亀ヶ浦遺跡の集落を営んだ人々は、農業を行う代わりに塩作りや漁業で生計を立てていたと考えられます。
同時にこうした人々は、瀬戸内海の複雑な地形や潮流を熟知し、高度な操船技術をもっていたと考えられます。そうした技術を生かし、単に漁業や製塩を行うばかりではなく、縄文時代の亀ヶ浦遺跡に見られたように、東西の文物が行き交う瀬戸内海を縦横無尽に往来し、文化伝達の担い手として、重要な役割を果たしていたのではないでしょうか。
こうした海辺に住んで海からの恵みで生計を立てながら、海上交通の担い手となっていた人々のことを「海人」と呼んでいます。馬島亀ヶ浦遺跡は来島海峡を舞台に活躍した「来島海人」の実態を物語る遺跡ということができます。
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