[ 持田3丁目遺跡 全景 ]
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所在地
松山市持田町
所属時期
弥生時代
持田町3丁目遺跡は愛媛県松山市の北東部に位置しています。持田町を含む道後城北地区は、弥生時代後期の超巨大集落である文京遺跡や弥生時代前期末の環濠集落である岩崎遺跡など、県内でも有数の弥生遺跡が密集する地域として知られています。また、かつて水道工事中に発見された木葉文を描いた弥生土器は「持田式土器」として愛媛県ばかりでなく、北四国における弥生時代前期土器の基準資料とされてきました。
平成5年に行った発掘調査の結果、持田町3丁目遺跡は石手川右岸の砂丘の上に営まれた弥生時代前期の墓地であったことがわかりました。
調査では縦に2列に並ぶ土坑墓群と大型の弥生土器を棺桶に転用した墓(土器棺墓)が発見されました。土坑墓とは、地面に長方形の穴を掘って遺骸を埋葬した墓で、なかには木の棺桶(木棺)に収めて埋葬されていたと考えられるものいくつか見つかっています。整然と並んだ土坑墓列のところどころに配置されている土器棺墓は小児の墓と考えられます。
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[土坑墓の副葬品(磨製石剣・石鏃)] |
墓の多くは小型の壺(副葬小壺)や碧玉で作られた管玉が副葬品として収められ、中には北部九州から運ばれてきたと考えられる層灰岩製の磨製石剣や磨製石鏃などが副葬されていた墓もありました。 |
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[土坑墓の副葬品(玉類)] |
また、管玉の産地は、調査時に行った分析では不明となっていましたが、最近の研究で、佐賀県の吉野ヶ里遺跡から出土している管玉など同様に朝鮮半島製である可能性が指摘されています。また、管玉とともに墓の中に収められていた勾玉も、セシウムが含まれる「テンガ石」と呼ばれる石材で、朝鮮半島で出土する玉類の原材料であるということがわかっています。
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さて、2列縦列配置の土坑墓や、小壺と管玉を副葬する習慣は弥生時代前期の北部九州に特徴的なものです。持田町3丁目遺跡で北部九州と全く同じ様式の墓地が営まれ、北部九州と同様に朝鮮半島産の玉類が副葬されているということは、すなわち持田町3丁目遺跡の墓地に葬られた集団が、北部九州から松山に移り住んだ人々であることを示していると考えられます。
現在の日本人の生活の基盤である水田稲作をはじめとする弥生文化は、縄文時代の終わり頃に、朝鮮半島から北部九州へ伝わり、急速に日本列島へ広まっていったと考えられています。持田町3丁目遺跡の墓地は、弥生文化が誰の手でどのように伝えられていったのかを具体的に物語るたいへん貴重な資料であるということができます。 |