所在地
四国中央市土居町
所属時期
弥生時代中期末
瀬戸内海の燧灘に面した宇摩平野の西側、四国中央市土居町では、四国縦貫自動車道の建設に伴う発掘調査で、法皇山脈から延びる丘陵上の弥生遺跡を多く検出することができました。調査された遺跡は隣接する丘陵上に立地しており、医王寺 I 〜 III 遺跡、長命寺遺跡、平坂 I ・ II 遺跡、小富士遺跡などが調査され、弥生時代中期後半〜後期初頭(今から2,200〜2,000年前)の遺構や遺物が見つかりました。
平坂 II 遺跡は、標高109〜126mの急峻な丘陵斜面に位置した遺跡で、調査面積は2,500平方メートルであり、ほぼ集落の全域を調査した良好な丘陵上の集落遺跡です。遺構は、竪穴住居10棟を中心に段状遺構や土坑が見つかりました。遺構の変遷には、中期末から後期初頭までの間に3段階があったことがわかっています。その変遷を見ると、最初の段階では竪穴住居1棟のみでしたが、その後、比較的大型の竪穴住居2棟に小型竪穴住居1棟が一つの組み合わせとなって、これに貯蔵穴の可能性が考えられる土坑が伴うかたちで変遷しています。出土遺物も壺や甕などの日常で使い弥生土器と石庖丁などの生活道具が出土し、一般の低地集落と変わらない遺物の組み合わせが認められました。
こうした平坂II遺跡をはじめとする丘陵上の弥生集落の調査は、山の上で生活する弥生人のムラの様子を明らかにし、教科書にも載っている「高地性集落」の研究に一石を投じることになりました。
「高地性集落」とは、水稲農耕を行うために低地に営まれる集落が当たり前だと考えられていた弥生社会で、それに反して高い所に立地する集落の総称として名付けられました。こうした高地性集落は、『後漢書』に登場する倭国大乱と関連づけられ、全ての高所に立地する弥生集落を軍事的な集落、抗争の産物として位置付けられ、現在に至っています。
しかし、平坂 II 遺跡をはじめ、四国縦貫自動車道の建設に伴う発掘調査で見つかった西条市の半田山遺跡(標高約130m)や明穂東岡II遺跡(標高約120m)など、丘陵に立地する弥生集落は、その調査成果から、その生活は低地の農耕集落と違いはなく、地域によっては高い所に立地することが日常的な生活であったことがわかったのです。最近の研究では、平坂II遺跡のような丘陵や台地、山頂や山腹に立地し、日常的な生活を行う弥生集落を総称して「山住みの集落」と呼ぶようになりました。それに対して「軍事的防御的機能」を重視し、それが非日常性・非生産性のなかでつくりあげられた集落を従来どおり「高地性集落」と呼ぶことにしており、愛媛県では防御用の壕をもつ西条市八堂山遺跡(標高196m)がその典型例としてあげることができます。
このように発掘調査から愛媛県では様々な集落形態があり、多様で複雑な弥生社会が展開していたことがわかりました。瀬戸内海沿岸で多く認められる山住みの集落ではどのような生活が営まれていたのか、その実体解明が今後の大きな課題です。
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